貴重なお便り

嬉しいことに、このホームページをご覧になってメールを頂きました。
感謝とともに貴重な思い出を紹介させて頂きます。今後も貴重な思い出の記事をよろしくお願い致します。

1970-1973 KANTO-MURA に住んでいたファミリーから Shelley様 (2014/6/16)

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当時6歳だったshelleyさんの思い出をメールで頂きました。父親が府中基地で勤務してたときに家族は関東村に住んでいました。貴重な写真も頂きましたので紹介させていただきます。
I hope you and your family are in good health. I just discovered your very interesting website and I felt compelled to send you an email. My father was in the U.S. Air Force and was assigned to Fuchu Air Station from 1970-73, so of course my family lived on Kanto Mura. We also lived briefly at the Green Park Housing Annex before we were assigned a unit on Kanto Mura.
I was 6 years old when we arrived in Japan in 1970, so I attended Chofu Elementary School on KM. I have many fond memories of Japan. It was the best experience of my military childhood. I have attached a few old family photos that include me, my brother, my mother and my father on Kanto Mura and at other wonderful places around Japan. Please enjoy them and feel free to respond at your convenience. (Shelleyさん、メールありがとうございました)

府中基地時代のケンちゃんの友達から Melvin Inatsuka様 (2014/6/18)

Inatsukaさんはケンちゃんの友達で、ケンちゃんが府中基地で働いている頃の週末にピンポンやボーリングなどをして一緒に遊んだそうです。現在はハワイに住んでいるためケンちゃんのお見舞いができず残念がっています。私から、イナツカさんからのメッセージ「MOSHI Ken-chan NI OMIMAE SURU KIKAI GA ARIMASHITARA "GOKAIFUKU WO INOTTE IMASU" TO OTSUTAI KUDASAI. YOROSHIKU ONEGAI SHIMASU.」を伝えました。

スターズ六本木事務所で働いていた人から Jim Hishinuma様

My father, Ramsay worked at PS&S at the Roppogi office from 1951 till 1979 when he was laid off and moved back to Hawaii. I graduated from Chofu High School in 1970 and remember going to the Stripes office in Fuchu next to the movie theater. Hope to hear from you soon, God bless you, Jim
※菱沼さま メールありがとうございました。入院中のスターズに詳しい鳥越さんに聞いてみたのですが、残念ながら明解な話を聞くことができませんでした。回復すればきっと話を聞くことが出来ると信じています。

府中に住む方から 松原様

 斉藤実様 初めてお便りいたします、同じく府中市新町に住む松原と申します。
昨日、最近特に肥満に悩んでおり体を動かすことが必須と感じて、自宅周辺の散歩を始めました。 そして、若いときに「フェンスの向こうのアメリカ」を感じた元府中米軍基地あたりを歩き、昔自分が10代の頃に初めてハンバーガーを食べボウリングをやった頃を思い出しました。そして、家に帰ってからその頃出入りした、この多摩周辺の関東村、府中米軍基地、立川基地、横田基地の事をネットで調べていて、偶然、斉藤さんのホームページを発見し、そこに掲載されている「懐かしい写真」に感動致しました。
 私は中学のクラスメートが関東村の中の床屋(BARBER)と知り合いで、英会話を教えているアメリカ軍の中尉?の奧さんが生徒を探しているとの事で一緒に週1回、関東村の中の住居に通っていました。ゲートを通過する時に甲州街道側か、北側のゲートで内部の警察であるセキュリティポリスの事務所から電話をして、中に入りました。 彼らは日本の一般の警察官と同じく拳銃で武装しているのにまずビックリしたことを思い出します。そして、住居は日本の家屋に慣れた私たちから見たら、とてつもなく一室が広く感じました。リビングはおそらく15畳以上あったと思います。1階はリビングとキッチンともう1、2部屋ぐらいあって、2階にも部屋がありました。それに、全室セントラル・ヒーティングで真冬に訪問しても、中は本当に暖かくて快適でした。
 その頃は16歳で軽免許が取れたので家で購入したホンダN360に乗ってました。友人はマツダのキャロルに乗って中の住宅まで通いました。記憶では日本は車は左側通行ですが、初めて入った当初は右側通行、制限速度はMph(マイル)表示でした。確か村内は8Mph制限だったと思いそれにえらくとまどったと思います。一度は中のパトカーに停められた想い出もあります。
 私と米軍基地の想い出はまだまだ尽きませんが、この辺にしておきます。 長々と、書いて済みません、ホームページに載せていない何かその頃の記録があればまた、見せていただけるとありがたいです。健康にお気をつけ下さい。

※先日松原さんとお会いしました。同じ府中市民ですから思いでは身近に感じます。面影は消えつつありますが、これからも府中基地&関東村の思い出を共有していきたいと思いますのでよろしくお願い致します。

嘉手納基地のnewsboyだった方から 宮城様

 ボクは貴殿と同じ頃中学1年から高校2年の間沖縄「嘉手納基地」でスターズの配達をやっておりました。
そう・そのような配達の方法風景でしたネ。ボクは1948年1月生れ団塊の世代の最先端でした。将校クラブでジョン・ウエインを見かけ、クラブマネージャーに聞くと「フイリッピンで映画を撮っているらしい」と・・。その以前にはオープンカーに乗って基地の外に出ていく前のアイゼンハウアーも、語ればいっぱいのすてきな想い出がある基地・米国人とのふれ合いの生活でした。
 本土マスゴミの書く沖縄の人の米国観は「反米」と記すが、それは間違いです。フレンドリーな米国人気質は沖縄の人のアイデンテイテイーと合致するのです。当時時々食事や色々なパーテイーに招いてくれた配達先の将校さんの家族から「価値」を諭され触発されて「大学進学」もできたのでした。一時はアメリカで牛飼いを考えたこともあった。ボクの中の米国人は優しく知的でした。ある日「シンシナチ市交響楽団」演奏会のチケットをもらって、将校さんのご姉弟と同行したこともあった。
 ただ米政府ではなく主体性のない横恋慕好きの我が国政府の「押しつけ」を嫌うのである。チャントした政治(外交力)を備えてくれよと希望する。わが国のこの外交力では世界と太刀打ちできないでしょうね。
 帰沖の際ホテルにある無料の『スターズ』を手にするのが懐かしい、もう一度スターズを配ってみたいナー。
 九州下自治体 元公務員

※遠くからメールありがとうございます。学生時代に同じバイトをしていたんですね!私も1948年生まれで沢山の思い出が詰まっています。確かに、もう一度スターズを配ってみたいですね!

追伸
 メールのご返事深謝。沖縄嘉手納から遠く離れた府中で、しかも同時期に「スターズ」のニュースボーイであったという斉藤さんのブログに出会い嬉しくなりました。
 今日の眠れぬ夜PCを確認したならば貴殿からの回答のメールでした。 当時ボク等嘉手納基地での『スターズ』のニュースボーイは20人ほどでした(ボクは130部余の配達を担当 sun onlyを除く)。嘉手納は特殊複合的な役目を有す基地であったので、兵舎に住んでいた某兵士はしばらく新聞が軒先に溜まって幾日経っても帰らぬ者もありましたので、マネージャーに相談することが多かった(集金ができなかった) 当時の沖縄には他にローカル紙『モーニングスター』というのが発刊されていましたが、併せて購読する家庭がありました。基地内配達部数も「スターズ」と変わらなかったと記憶しています。
 「スターズ」は毎朝2時から3時頃に横田基地から嘉手納に空輸されてくるものでしたので、沖縄の他の基地での配達は自ずと遅れる場合があったようです。嘉手納のマネージャーは津波古さんという方でしたが音信不通になりました。
 ボクが北九州市役所就職の際に経歴を埋めてもらうため東京・赤坂山王ホテルにお住まいだったサージュン・グリーン氏にお世話になったものでした。 ボクは未だ「ソフトボール・野球壮(少)年・小僧」ですが、ゆっくりメール等であのころの想い出を交換いたしましょう、嘉手納基地でのたくさんのすてきな想い出をお話しできると思います。
 申し出のあったボクの「メールを記事にとの件」?どうぞ自由に使って発信してください、ならば今後記事(?)にできうる・記事にするに耐え得る「スターズでの思い出話」を定期的にお送りしたく存じます。
 現在ボクは福岡小倉に住んで43年になりますが、嘉手納基地出身あるいは他の基地の海兵隊基地出の友人が退役後も沖縄に住んでいる者がおりますので、帰沖した際に嘉手納の基地内PXやクラブに同行食事等に出入りさせてもらったりしています。米国人は闊達でコミ二ュケーション力があり知的ですネ、気持ちいい連中です。米国は多民族国家ですので・ネガチティブな島国根性が通用しないのでしょう。未だ学ぶものがいっぱいありますね。

※確かに集金ではファミリーは苦労なかったのですが、府中基地の兵隊さんの集金は苦労しました。残念ながらお世話になった高久マネージャーは他界されました。あれから半世紀ですから。これからも情報をお願い致します。

連絡先

感想や情報などなんでも結構です。お気軽にメールか電話をお願い致します。

183-0015 東京都府中市清水が丘1-10-27 斉藤 実 090-6003-0390
メールアドレス: msaito■asa.email.ne.jp (■を@に変更してお願いします)

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