星条旗新聞 Stars and Stripes Newsboy (スターズ アンド ストライプス)

1964年(東京オリンピックの年)高校1年のとき、父親が闘病生活だったため小遣いを稼ぐために新聞配達のアルバイトを探していた。その時近くの府中米軍基地内の新聞配達バイトを耳に入れたので、直接正門ゲートを尋ねてみた。 ラッキーなことにそのまま基地内の事務所に行くことができました。
スタッフ及び新聞配達は日本人で夕刊のみの配達だったので不安なく、学校は基地から自転車で5分の府中工業高校で授業が終わってから配達が出来るので条件がよくバイトすることを決めました。

この写真は、唯一1枚手元に残っていたものです。スターズアンドストライプス新聞のNewsboyとStaffの皆さんです。自転車やバイクに乗っているのがNewsboyで芝生に座っているのがStaffで、手前が高久マネージャーで向こう側が鳥越ケンちゃんです。 この場所は、府中基地の事務所前でへリポートが右側にありました。現在は府中の森芸術劇場になっています。また向こう側の木々のあるところは現在自衛隊基地になっています。左側がPS&Sの事務所で映画館の隣にありました。よく無料で映画(英語版)を見せて頂きました。

関東村で配達がはじまった

関東村(いまの味の素スタジアム周辺)の20号沿いにあるホテルの前辺りが正門ゲートで、そこまで自転車で通った。新聞の保管場所で自分の分の新聞を荷台に積んで出発。約1~2時間位の時間で配ったと思う。配達が終わってから人見街道を走って府中基地の事務所に寄り、皆さんと雑談して帰宅した。


1棟4世帯で全体で約220棟ありました

雨の日も風の日も自宅から自転車で関東村に通った。自転車の荷台に新聞を載せて、駐車場に置いては必要な部数を抱えてコの字型の住宅3棟分4ドアx3(12部)を順繰りに配った。一人で150部は配っただろうか?Newsboyは6人で配達していました。 配達は1階なので1軒づつ配っても苦にならなかった。購読世帯は80%以上はあったと記憶しています。

関東村での配達方法

関東村ではポストに入れず、新聞を4つ折りに曲げて、外網戸の取っ手の内側に新聞を挟み込んで配達しました。時々犬に足を噛まれたこともありました。走って配っていたので後からやられました。(怖かった)

父親が他界

1965年(昭和40年)高校2年の6月父親が癌で亡くなりました。(享年54歳)

集金は自分で

PS&S

集金は月1回自分で行ったので顔馴染みになり英語の勉強になりました。
購読料は2ドル50セントで、時々チョコレートなどをもらって嬉しかった。家族住宅だったので集金率は100%でした。

自転車から原付バイクに

16歳になって原付の免許を取り給料を貯めてバイクを買って配達した。当時の給料は確か7000円位?だったと記憶している。原付バイクはトーハツランペットやホンダスポーツガブに乗っていた。

Newsboyたち

Newsboyは全体で10名位?(関東村は6名)で府中基地の近所と関東村の近所の高校生が主でした。半沢よっちゃんがバイク好きで何故かバイクを買うNewsboyが多かった。みんな元気でほとんど休むことなく配達していました。すべてのお宅が購読していた訳ではないので代理配達ではリストを見ながら手分けして配達しました。

Ham友達ができた

配達していたある家の屋上にアマ無線の八木アンテナが建っていたので声をかけた。そのファミリーの息子がJimで、私もアマ無線をやっていたので話がはずみ日曜に遊びに行くようになった。(別ページで紹介)

関東村から府中基地にかわる

途中から、関東村から府中基地に配達が変わった。(約1年?)自宅に近くなったのでラッキーだったが、府中基地は独身の兵隊さんで帰りが遅く不在が多く集金に苦労した。夜は外から窓の明かりを確認して集金した。

府中基地での配達方法

府中基地の宿舎はホテルの様な造りだったので、新聞をドアと床の隙間に滑り込ませたのです。腰を曲げずに投げ入れるのがコツで結構楽にできた。部屋を間違えて入れてしまった場合は回収できず諦めです。もし不完全に入れるとなぜか盗難なんて事がありました。

高校卒業と就職でバイトをやめた

1967年(昭和42年)の春就職が決まったので新聞配達のバイトを辞めた。約3年間のバイトは有意義な時を過ごすことができ、沢山の思いでを胸に社会人となって巣立ちをしたのであります。

スタッフの皆さんに感謝

高久マネージャー、けんちゃん、てるちゃん、他のスタッフとNewsboyの皆さん、沢山の思い出ありがとうございました。しばらくして関東村と府中基地は返還されPS&S事務所も横田基地に移りました。それからは足が遠のき現在に至っています。あれから46年の歳月が過ぎました。

府中工業高校は50周年

50周年

私が通った高校は去年2012年で50周年を迎えました。当時は学校の周りは畑一面でしたが今は若松小学校、サミット、ニトリなどマンションや住宅に囲まれています。校舎や校庭は建替えられて面影はありません。自宅から1km、府中基地から500mの近さです。私は2期生ですから私の追憶を物語る半世紀を刻みました。当時この高校から数名がNewsboyをしていました。

巨人、大鵬、卵焼きの頃

高度成長時代の1960年代は野球と相撲は大衆娯楽でした。私も巨人長島ファンで相撲も白黒テレビで見て興奮していました。そして子供のお弁当には卵焼きが添えられていた。
当時の流行歌は、幸せなら手をたたこう(坂本九)、愛と死を見つめて(青山和子)、アンコ椿は恋の花(都はるみ)、学生時代(ペギー葉山)、柔(美空ひばり)、ヨイトマケの唄(丸山明宏)、ごめんねジロー(奥村チヨ)、君といつまでも(加山雄三)・・・。

関東村の廃墟系サイト

廃墟系1 廃墟系2

「takurama photo gallery 廃墟系」 サイトの写真を使わせて頂きました。

当時、私達はこの道を自転車で配達していました。


写真を使わせていただきました

当時の昔の写真をネットで見つけました。承諾を頂きましたが意味が判らないものがあり許可が必要な場合はすぐに消去しますのでご一報下さい。利用させて頂きありがとうございます。またリンクもさせて頂きました。

Chofu.org様  ReoCities
特に感動したのは、「追憶の調布関東村(5)さよなら関東村」 サカタ@カナダ様のページです。