関東村の思い出

KantomuraMap

このエリア内はアメリカです

南(下)の中央が正面ゲートで、すぐ横に甲州街道(20号)が走っています。いまの「味の素スタジアム」の西側です。
北(上)が北ゲートで、人見街道が走っています。この北側にアメリカンスクールがあります。
東(右)には原っぱが広がっていました。その向こう側に調布飛行場がありました。今はサッカー場や公園になりました。
西(左)は、フェンス沿いに一本の道路を挟んで朝日町の住宅が続いています。
このエリアにはアメリカ人の紹介がないと入場することはできませんでした。

このエリア内を配達しました

たぶん、80%以上の家でスターズ・アンド・ストライプス(PS&S)の新聞を購読していました。 このエリアを、6人のNewsboyが配達していました。また、エリアの外に住むアメリカンスクールの関係者にも配達していました。

新聞の保管場所

保管場所は、ほぼ中央の東端の建物でした。午後スタッフが置いていった新聞を、学校が終わってからここで自転車に積んで配達に出発しました。

住宅を数えてみると

約220棟で世帯数は220x4=880世帯でしょうか?ここを6名のNewsboyがブロックに分かれて配達していました。

子供たちと友達

可愛い小学生が私を見つけると「mino!」と呼んで慕ってくれました。その子達の名前はマイクとかマージュリーとかだったかな?今は55歳位になっているでしょうか? その内の1軒が友達になったJim Grubbsファミリーでした。

当時の正門ゲート(国道20号沿い)

当時の正面ゲート

ここが正門ゲートでパスを見せて入門します。守衛さんとは顔なじみで顔パスだったかな?この写真は当時のもので白黒写真が主流だったが、私が辞めた後で、この頃からカラー写真に変わっていったのだと思います。
手前の国道20号は1964年の東京オリンピックのマラソンコースで折り返し地点がこの手前500mでした。あの有名な裸足のアベベと円谷選手がUターンしたところです。


今の正門ゲート辺り(国道20号沿い)

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この写真は当時の正門ゲート付近です。20号の手前にはビジネスホテルが2件ほどあります。また右側に味の素スタジアムが見えます。正面の向こう側には介護施設などが出来ました。左側には病院や大学が建ちました。当時の面影はほとんどありません。


味の素スタジアムと東京オリンピックのマラソン折り返し地点(国道20号沿い)

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この写真は味の素スタジアムの正面入口付近です。交差点近くに東京オリンピックのマラソン折り返し地点の記念碑(右図)があります。関東村の手前で折り返したことになります。
競歩競技では、関東村の正門を通過して府中市の小金井街道交差点手前が折り返し地点でした。同じように記念碑が20号脇にひっそりと建っています。


関東村の面影が残っていました

関東村跡1 関東村跡2

この写真は当時の関東村の北西の角地です。この突き当たりに北ゲートがあり人見街道に出ることができました。当時の建物のコンクリ土台だけが見えます。私はこの道路を走って新聞を配達していました。残された植木は当時のまま残されているようです。当時は一面に芝生が植えられていて緑が綺麗でした。
最近になって中で工事が始まっています。たぶんこの光景を見られるのも時間の問題のようです?きっとここに立派な建物が建つことでしょう?


感動的なサイトを見つけましたので紹介します

関東村の住宅跡

特に感動したのは、「追憶の調布関東村(5)さよなら関東村」 サカタ@カナダ様のページです。
関東村の廃墟写真「takurama photo gallery 廃墟系」 サイトです。
関東村の廃墟写真「廃墟系の関東村跡地」 サイトです。(右の写真)


府中基地の思い出

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左の写真は当時のもの(PHOTO BY JACK KENEDY 1960'S)で、右の写真は現在の平和通りの突き当りです。返還前は正門ゲートがありました。 正面の建物は以前と同じものだと思いますが府中基地の空軍司令部でした。
写真を良く見るとゲートの両側の杉が今でも同じ位置にあります?きっと当時のまま元気に育っているのでしょう。
右に行くと浅間山方面で、左に行くと第2小学校方面で畑が続いていました。この平和通りは東府中から直線で500m位でしょうか。当時は両側に沢山のネオンサインが輝くキャバレーやクラブがあり、夜になると綺麗な女の人と兵隊さんが腕を組んで歩いていました。
この銀杏並木は当時からありましたがもっと背が低くて、私たちはこの木に登って遊びました。いまでは大人に叱られるでしょうね。 また、兵隊さんにハローと言うとチューインガムやチョコレートがもらえたりしました。

正面ゲートから右側

この松の木は当時からあったと記憶しています。当時の建物は司令部だと思います。私たちは近づくことはありませんでした。現在は自衛隊の司令部になっていると思われます?

東南角

現在では自衛隊のジェット機が2機展示してあります。ということは航空自衛隊ですね。

旧基地の北部

旧基地の北部は、まだ当時の姿が残っています。「国有地 立入禁止」の看板が立ってます。 建物は正に廃墟となって40年近く放置されています。この光景は唯一の面影が残っていてホッとします。この建物の各部屋に新聞を配達したからです。

フェンスの手前は住宅が

フェンスのすぐ外側には駐車場と住宅があります。たぶん46年前からあったと思いますが?外からこの廃墟を見て何を感じるのでしょうか?

タワーとパラボラアンテナ

今は使われていないと思われるタワーとパラボラアンテナが錆びた状態で原型を保ちながら建っています。方向はアメリカに向いているので当時は重要なアンテナだったことでしょう。

まさにここを自転車で走っていた

いまでは誰も通らない廃墟の道路は、当時私たちは自転車で走り新聞を配達しました。いま見つめては46年前を思い出します。でも廃墟となった建物を見るとあまりにもはかない気持ちになります。なぜこのような結果になったのかと。

錆びた外灯とメイドさん

フェンス沿いにある外灯は当時のまま残っていますが、錆びた状態が手付かずで約40年の歴史を物語っているようです。
基地の北西の角地にはフェンスの内側に中が見えないようにコンクリの塀があります。この辺には偉い将校の家が建っていたエリアだからです。 当時周辺にはガードマンが警備をしていました。私たちは新聞配達するのでこのエリアに入ることができたのです。
そして、この家には「メイドさん」がいました。(今のアキバのメイドさんとは違い本物のメイドさんです!?)

間じかに見える建物

たぶんこの建物は通信施設だったと思う。ここを通ったときに紙テープのパンチャー?の打つ音が聞こえた記憶があります。またJimが中を見せてくれた記憶があります。今でもこの建物が一番近くから見ることができ当時を思い出すきっかけになります。

 

パラボラアンテナは何を思う?

近くにある浅間山から見た基地の北側です。手付かずの木々と錆びたパラボラアンテナが2機寂しそうに仙台カの方向を見て立っています。何を思っているのだろうか? そろそろ解体されて生まれ変わる運命かもしれない?



FUCHU AIR STATION DEPENDENT HOUSINGN ポストカード

我が家の古いアルバムからこの写真を見つけました。親戚の「大門さん」が勤めていたPXらしいです?
(2023/11/30 写真追加)